イエスの方舟事件の後もシオンの娘として共同生活を送っていた

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千石イエスこと千石剛賢が
開催していたイエスの方舟という信仰集団が
マスコミによってバッシングをされたイエスの方舟事件

主宰者である千石イエスはなんとも
波乱万丈な人生を送っていました。

そしてイエスの方舟は現在は
シオンの娘という形でも存続をしています。

今回は千石イエスと
イエスの方舟事件、そして
シオンの娘について見てみましょう。


 

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■千石イエスについて

名前:千石剛賢(せんごく たけよし)
生年月日:1923年7月12日
出身:兵庫県

資産家に生まれた千石剛賢は
1952年ごろに京都に本部が有る堺市内の
聖書研究会に参加。

1960年に千石剛賢は研究会の会員とともに
上京をし東京都国分寺に「極東キリスト教会」を設立。

1965年ごろから共同生活を行い
行商や刃物研ぎをして布教活動を行いました。
そして1975年に「イエスの方舟」と名称を変更します。

■イエスの方舟事件

イエスの方舟と改名した頃から
家庭に居場所がないと感じた信者、
特に多くは若い独身女性が
家を出て共同生活を行います。

そうして家を出た信者は捜索願が出されるものの
千石剛賢と共同生活を続けている信者は
強制されているのではなく

自らの意思で共同生活を行っており
家に帰ることを拒否。

イエスの方舟自身も法的に
問題のある行為を行っていないために
警視庁の特別捜査班をもってしても
信者たちを家に帰すことは出来ませんでした。

それに納得の行かない信者の家族が
集団で押しかけるなどしてしまい
そのような背景からマスコミも
イエスの方舟を邪教としてバッシング。

1978年4月には上記の理由で不況が難しくなったことと
千石剛賢の心筋梗塞が悪化したことから
イエスの方舟のメンバーは全国を転々としました。

そうして1980年に千石剛賢を糾弾する
信者の家族の手記が雑誌に掲載されます。

タイトルは「千石イエスよ、我が娘を返せ」であり
ここから千石剛賢は千石イエスと呼ばれるように。
 

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■イエスの方舟事件の終息

そうしてマスコミからバッシングを受け騒ぎになったために
警察が本格的に動き、1980年7月2日には
千石剛賢とイエスの方舟の幹部ら5人に
名誉毀損などの容疑で逮捕状が出て
全国に指名手配がされます。

しかしその翌日の7月3日に千石剛賢は
心臓病から狭心症を発症し入院。
7月4日にはイエスの方舟の女性信者たちが記者会見を行います。

会見はイエスの方舟に対する誤解を解くためで
共同生活は楽しく、今でも千石剛賢以外に頼れる人はいなく
自分を理解してくれる人は千石剛賢いかいない。

ホステス勤めをしていたのは自分たちで決めていて
強制はされていない。
むしろ千石剛賢はそのことに胸を痛めていたなどと
語っていました。

■イエスの方舟事件のその後

千石剛賢はそのおよそ半月後に自ら出頭。
名誉毀損で書類送検されたものの
女性らの証言で容疑事実はないとして
不起訴処分になりました。

そして女性たちの多くは
千石剛賢の元を離れようとせず
1980年12月に福岡の中洲に移り、
「シオンの娘」というクラブを経営した千石剛賢の元へ
また戻ってきました。

このときには多くの信者達は親たちと和解をし、
許可を得て共同生活を送っていたようです。

また、1993年からは千石剛賢は
福岡県に教会兼自宅を建てて
2001年12月に福岡市の病院でなくなるまでは
そこで信者との共同生活を行っていたようです。

■おわりに

家族というものに違和感があり
そこから抜け出して共同生活をし
現在は自らの価値観にあった生き方をしている信者達。

傍から見ると少々特殊であったために
イエスの方舟事件と名付けられるほどに
大きな事件となってしまいました。

しかし千石剛賢は、ただ世の中の間違いを継承せず
自分独自のあり方、生活を築こうとしただけ。

そんな彼がイエスの方舟事件という
大きな騒動の中心となったのは

女性信者達が逃げ込んできて
親のところへ帰りたくないと言ったため。
たとえ自分が溺れても、溺れかかっている娘達を
放っておくことができなかったからであったという。
 

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