日本のマラソンを牽引してきた瀬古利彦。
素晴らしい選手であるものの
オリンピックではメダルを取ることが叶っていません。
今回はなぜ瀬古利彦は
オリンピックでメダルを取ることが
出来なかったかについてみてみましょう。
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■瀬古利彦について
名前:瀬古利彦(せこ としひこ)
生年月日:1956年7月15日
出身:三重県桑名市
瀬古利彦は元々は野球をしていましたが
高校時代の1973年、1974年にインターハイの
800m、1500mで優勝をしています。
1976年に早稲田大学に入学し
競走部に入部して中村清監督から
マラソンを勧められて転向。
1978年~1980年の
福岡国際マラソンで三連覇をし、
モスクワ、ロス、ソウルと
3大会連続でオリンピック代表になります。
ソウルオリンピック後に
国際千葉駅伝で日本チームの
アンカーをして現役を引退。
現役引退後はエスビー食品陸上部監督と
早稲田大学競走部のコーチを兼任しています。
2006年にはエスビー食品陸上部監督を退任しており
2013年4月からはDeNAランニングクラブ
総監督となっています。
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■瀬古利彦はオリンピックでメダルをなぜ取れなかったか
瀬古利彦がオリンピックに参加したのは
実際は1984年のロスオリンピックと
1988年のソウルオリンピックのみ。
1980年のモスクワオリンピックは
代表にはなったものの
西側諸国のボイコットで
そもそも出場自体が出来ませんでした。
瀬古利彦にとって絶好調であった
1980年にモスクワオリンピックに
出場できなかったのは大きな痛手。
■瀬古利彦のロスオリンピックでの失敗
次の1984年のロスオリンピックについては
瀬古利彦は炎天下の東京で
40キロ走を繰り返して体調を崩し
試合の二週間前に血尿が出るほど体調不良。
そのためレース目前だったものの
瀬古利彦は練習を一週間休むなど
調整に失敗をしていました。
実は恩師である中村監督ががんに冒されていました。
瀬古利彦が命がけの所を見ているから
今は病院に行かないとまで言って
中村監督はがんであることを
マスコミに隠していました。
そのため瀬古利彦は調子が悪いため
休ませて欲しいなどとは言い出せなかったという経緯が。
そのため体調が悪く
結果は14位となってしまいました。
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■ソウルオリンピックはピークを過ぎていた
そして1988年のソウルオリンピックですが
事実上五輪代表選考会である
1987年の福岡国際マラソンには
足首を捻挫していたため欠場。
選考レースの一つである
びわ湖毎日マラソンに優勝して
代表とはなったものの
そもそもの優勝タイムが
突出して速いというものではなく
瀬古利彦に対する救済とも言われたことがあるほどで
ソウルオリンピックの結果は9位と
メダルを手に入れることは出来ませんでした。
■おわりに
瀬古利彦がなぜメダルを取れなかったかというと
やはり絶好調であった1980年に
モスクワオリンピックが
ボイコットで出場自体できなかったのが一番大きい気がします。
歴史にifはありませんけれども
もしモスクワオリンピックのボイコットがなければ
瀬古利彦はロスやソウルオリンピックも
調整をうまく出来たのではないかなぁという気が。